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COLERE JOURNAL(コレレジャーナル)

弁護士藤森純が運営するブログです。文化と法律の関わり方について考えていきたいです。

1956年|太陽族映画上映反対運動から新映倫発足へ(2)

映倫の組織変更の動き

前回のエントリーで太陽族映画上映反対運動が新映倫発足のきっかけのひとつになったことを書きましたが、実は映倫の組織編成を変えようという動き自体は、太陽族映画上映反対運動が起きる前からありました。

当時、映倫の職員であった遠藤龍雄著『映倫・歴史と事件』ぺりかん社・1973年)から引用してみましょう。

映倫改組の問題は、実を言うと、その前の春からの懸念であり、池田義信氏が中心となって、五社*1は勿論、すでに審査参加の欧州系外国映画業者、さらには未加入の米国メジャー(大手)系十社の参加を構想とした私案が作られており、米国映画輸出協会(MPEA)と、大沢善夫氏(大沢商会)を通じて、折衝に入っていたのであった。

その頃、米国メジャー系10社の映画については、映倫の審査が行われていませんでした。これは、米国メジャー系10社については、米国での独自の審査に通過している以上、日本において重ねて審査を行う必要はないという米国側の言い分に基づくものでした。また、米国側としては、日本の映画会社が作った機関に審査を任せると不利益な判定を受けるという危惧もあったとされています。

ところが、米国側も歩み寄りを見せはじめ*2、審査項目をかなり限定したものの、日本での審査に同意する方向で話が進んで行きます。そういった状況の中で、結果的に映倫改組の動きを加速させる事態として太陽族映画上映反対運動が起こったのでした。

『処刑の部屋」公開前日の朝日新聞による公開質問状

また、太陽族映画上映反対運動を活発化させるのに一役買ってしまったのが、映画『処刑の部屋』公開前日である1956(昭和31)年6月27日の朝日新聞の夕刊に掲載された井沢淳の記事でした。「犯罪を真似させる危険 上映するならカットせよ」という見出しが付いたその記事は、『処刑の部屋』を製作した大映の永田社長に宛てた公開質問状という形式をとっています。その内容を以下に引用しながら見てみることにしましょう。

ただいま『処刑の部屋』を見ましたが、見終わってどうにも後味が悪く、やり切れない思いでした。同じ石原慎太郎原作でも『太陽の季節』は演出が稚拙なので、まだ少しは愛敬がありましたが、今度のはなまじ市川崑演出が技術的にうまく、迫力もあるので、余計いやな感じが出ていると思います。こういうテーマの場合、技術は凶器だとも言えます。

同じく石原慎太郎原作の『太陽の季節』を引き合いに出しながら、『処刑の部屋』について、市川崑監督の演出の技術ゆえに、「後味が悪く、やり切れない」、「余計いやな感じが出ている」という印象を持ったことが語られます。井沢はこのような印象を持った映画に対して、永田社長に向けて、次のような提言を行います。

特に主人公(川口浩)が睡眠薬で女子大生(若尾文子)を睡らせて犯すところは、全く有害です。これは明らかに犯罪であり、その犯罪を青少年たちにまねさせる危険が多分にあります。この映画の上映を中止していただきたとも思いますが、それが無理なら、せめて、この辺の部分を切っていただきたい。

この文章を見る限りにおいては、井沢は、睡眠薬で女性を眠らせて犯すという犯罪行為が描かれている部分を問題視して、映画の上映中止または、該当部分の切除を求めています。映画という表現の一部に犯罪行為が描かれていることを理由に、映画自体の上映中止を求めるというのは、かなり乱暴な主張だと思います。そのような主張が『処刑の部屋』の公開前日に朝日新聞の夕刊上で展開されたというのは、当時の新聞の影響力を考えれば、かなりの反響を呼んだものと推察されます。皮肉なもので、このような記事が出ることによって、人々の注目をより集めることとなり、公開された映画はヒットを収めることとなります*3

と、同時に、太陽族映画の倫理観に反感を持つ層に対しても、当該記事は大きな影響を与えることになり、太陽族映画の上映反対運動はより活発となっていきます。そして、前回のエントリーでも採り上げたように国会でも太陽族映画に関して議論がなされ、映画の内容の審査について映倫による自主規制に任せるのではなく、何らかの法的な規制が必要なのではないかという話の流れが作られていくことになります。

井沢の公開質問状は次のように続きます。

大映の企業審議会では、あなただけが最後までこの企画に反対されたと聞いています。正にその通りだと思います。ディズニーのすぐれたマンガ映画などを輸入して日本の少年たちを教化しておられるあなたとしては、『処刑の部屋』は当然、作りたくないものだったと信じます。その気持を、もう少し企画審議会でも主張していただけたら・・・・とも思いました。

主人公をふくめた青年たちの生き方はまるで無茶です。ただ力だけがすべてを解決するという考えも、危険なものを持っています。日活が『太陽の季節』でヒットしたからとて、大映がその後をまねることもありますまい。

このうえは、せめて興行において、青少年に見せないように良心的にやってほしいと思います。どぎつい宣伝などをしないように、注意していただくことを望むばかりです。グランプリ・大映の名誉のためにも。

どういう趣旨で書いているのかがよくわからないのですが、「ディズニーのすぐれたマンガ映画などを輸入して日本の少年たちを教化しておられるあなた」という書きぶりについては、違和感を感じざるを得ません。大映がディズニーの映画を輸入していたとして、それが日本の少年を何らかの形で「教化」することを主眼として行われているとは考えにくいです。基本的には、興行、娯楽という側面から映画のラインナップを充実させるためにディズニーのカタログを輸入していたと考える方が素直だと思います。仮に永田社長が企画審議会で『処刑の部屋』の製作に反対していたという事実があったとしても、そのこととディズニー映画の輸入との関連性がどこにあるのか全く不明です。

井沢は、大映に対して、『処刑の部屋』について「どぎつい宣伝などをしないように、注意していただくことを望むばかりです」と述べていますが、大映は、この記事を逆手にとって、「犯罪を真似させる危険 上映するならカットせよ」という見出しを『処刑の部屋』の新聞広告などのキャッチコピーとして使っていったようです。

このように井沢の記事は、結果的に、逆説的な『処刑の部屋』の宣伝効果とともに、太陽族映画上映反対運動の活発化という2つの役割を果たすことになりました。井沢本人は、キネマ旬報1956年8月下旬号(キネマ旬報社「映画批評について」と題する市川崑との対談記事の中で、朝日新聞の記事の趣旨が間違った形で伝わってしまったことを嘆いているかのような発言をしていますが、前述の朝日新聞の記事の本意がどこにあったのかについては、発言が観念的すぎてよくわかりませんでした。市川崑との対話もあまり噛み合っておらず、わかりづらいことこのうえない対談ではありました。もっとも、最近の対談記事ではなかなか見かけないような、真っ向から対立した意見を述べ合い、鈍器で殴りあっているかのような言葉の応酬にはなかなか興味が惹かれるものがあります。

1956年当時、映画がメディアとして世間一般に与える影響力が非常に大きかったことはわかるものの、なぜ、小説では許される表現が、映画になった場合に、上映中止やカットを求められるのかについて、朝日新聞の井沢の記事では、合理的な説明はされていません。

井沢は、キネマ旬報での市川崑との対談の中でも、

「あの映画はあきらかに犯罪描写だし、それをああいう露骨な表現で描いていくということが、小説ならまだ良いけれども、御承知のごとく時間の芸術であるから困る」

と発言していますが、なぜ、小説なら良いが映画ならダメなのかが語られないままです。

市川崑は、先の朝日新聞の井沢の文章に対して、道徳批評であると断じたうえで、

「映画というものは、そういう、つまり道徳批評とか、そういったものは(これは「処刑の部屋」の場合をいうのだが)そういう観点からばかり批評しないで、映画として見てもらいたいということを再三いうわけです。殊にあの批評文の中に「技術は凶器だ」という言葉があったが、ああいうことは断固として僕は排撃する」

と述べています。

映画における表現を道徳的観点からのみで捉えてしまう批評は、井沢の記事のように、なぜ映画だとダメなのかという部分を明らかにしないままに、倫理的によろしくないという理由で表現を制限していこうという流れを導いていきます。

このように井沢の記事自体は、表現への規制を加速させるために書かれたものと理解ができそうに読めますが、先述の通り、井沢の真意としては、違ったところにあったようです。井沢は、キネマ旬報市川崑との対談の中で、

「今度のきみの作品が動機となって、僕らが一番恐れている映倫破壊という先鞭になったらどうする」

といった発言をしています。井沢としては、映倫の審査を通過した『処刑の部屋』を観たら、映倫の審査を通過したとは思えないような不適切なシーンがあり、このような映画を上映中止やカットをするなどといった自主規制を行わなければ、映倫の審査による映画業界の自主規制というシステムが壊れ、国による法的規制がなされかねないという危惧から、前述の朝日新聞の記事を書いたということになるようなのです。

しかしながら、朝日新聞の記事からは、井沢がそのような視点を持って書いているとは到底読めません。井沢も市川崑との対談の中で新聞というメディアの文字制限による限界を主張していますが、それは言い訳にしか聞こえません。井沢の意図がどこにあったにせよ、結果的に当該記事が、『処刑の部屋』を観ていない層にも、内容的に問題のある映画であるという認識を植え付けることになり、映画に対する法的な表現規制の必要性が叫ばれる原因のひとつになったことは否めません。

1956年といえば、敗戦から10年を過ぎたものの、戦中やGHQの占領期における「検閲」の記憶はまだ新しかったはずです。そんな時期に、表現について何らか法的規制をすべきだという議論が全国的に巻き起こったということは、「表現の自由」というものがすぐに瓦解しかねないデリケートなものなのだということを思い知らされます。

法的規制と自主規制のいずれが良いのかという点については、単純に語ることのできない大きな問題ではありますが、1956年、映画界は、映倫の組織体制を一新し、自主規制の機能を強化させるという方法により、映画の内容に対する何らかの法的規制が及ぶことを回避することを選びました。

(文中敬称略)

*1:筆者注:「五社」とは、日本の大手映画会社5社を指します。「五社」がどこを指すかについては時代によって若干異なり、「松竹、東宝大映、新東宝東映」を指す場合と「松竹、東宝大映東映、日活」を指す場合があります。もともと、日本の大手映画会社を「五社」とくくって呼ぶのは、1953年に松竹、東宝大映、新東宝東映五社協定を結んだことに端を発します。1958年には五社協定に日活が参加して六社協定となりましたが、1961年には新東宝が経営破綻したため、五社協定に戻っています。このような経緯があるため、時期によって指している「五社」が違う場合があるのです。

*2:なぜ歩み寄りを見せたのかについては、筆者が不勉強にしてまだ不明なので、引き続き調べたいと思います。

*3:映画がヒットしたことから、井沢による記事は映画の話題作りのための宣伝記事だったのではないかと言われたこともあったようです。