ここ最近のエントリーでは、表現・文化に関しての事件を年表にまとめていっています。これは、改正風営法の規制のあり方について思考を巡らせたり、自分が普段の業務の中で接している芸術、文化に関する様々な問題、著作権のあり方に関する問題などを解決したりするにあたって、これまでの歴史の中で積み上げられてきた表現・文化に関する様々な事件の流れを改めて知ることの必要性を痛感しているためです。マイペースな更新にはなってしまうと思いますが、続けていこうと思っていますので、お付き合いください。
単に年表だけを書いていくだけでは淋しいですので、年表の中でも面白い事項については、別途エントリーを残していこうと思っています。散文的かつ五月雨式のエントリー更新になってしまうかもしれませんが、こちらについてもお付き合いいただけると嬉しいです。
今回は、1956年(昭和31年)のお話です。
映画『太陽の季節』(古川卓巳監督)の公開
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1956(昭和31)年5月17日、日活映画『太陽の季節』(古川卓巳監督)が公開されました。原作は、石原慎太郎の同名小説です*1。 同小説については、第1回文學界新人賞と第34回芥川賞を受賞していますが、内容が当時の社会倫理に反しているとして、選考にあたって賛否両論があり、物議をかもしました。
『太陽の季節』の映画化にあたっては、映倫が同映画の脚本を審査しました。映倫は、2点ほど演出上の注意を行いましたが、それ以外については、特に問題がないと判断しました。
そして、映画『太陽の季節』は、同小説が芥川賞を受賞してから半年も経たない5月17日に公開され、大ヒットを記録します。
ところが、その映画の反倫理的な内容について、教育団体やPTAの反発を招き、各地に上映反対運動が巻き起こっていきます。
映画『処刑の部屋』(市川崑監督)の公開
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そのような状況の中、同じく石原慎太郎原作の小説『処刑の部屋』が市川崑監督の手により映画化され、6月28日に公開されることになります。『処刑の部屋』のあらすじを『ぴあシネマクラブ日本映画編2005-2006年版』から引用してみましょう。
「ある夜、大学生の島田と友人は、二人連れの女子学生と飲み歩いたが、島田は女子学生・顕子に薬を飲ませ友人のアパートに連れ込み、犯してしまう。その後、島田は金が元で他の大学の連中にリンチを受ける。そこに顕子が現れ島田は恐怖する。顕子の手にはナイフがあった・・・・。」
『処刑の部屋』では、主人公である島田克己(川口浩)が睡眠薬入りのビールを女子大生の青地顕子(若尾文子)に飲ませて強姦するというシーンがあり、これが青少年に悪影響を及ぼす可能性があるとして問題視されました。
例えば、地域婦人団体連合会(地婦連)は、映画『処刑の部屋』の公開翌日である6月29日に、日本興業組合連合会に対して、映画『処刑の部屋』の未成年者の入場制限の厳守を要望するとともに、映倫に対して、成人向指定の審査機関の改革を要望しています。
また、実際に当時、映画の『処刑の部屋』に影響されて少年が犯罪を犯したという事例が報告されています。少年犯罪データベース*2から引用してみましょう。
昭和31年(1956).7.28〔中3が映画をマネて睡眠薬混入〕
埼玉県熊谷市で、中学3年生(15)が隣家の米人宅に忍び込み、砂糖壺に睡眠薬を入れ、コーヒーにこの砂糖を入れて飲んだ主婦(23)が昏睡状態となった。石原慎太郎・原作、市川崑・監督の太陽族映画『処刑の部屋』を観て、主人公が女を薬で眠らせて犯すシーンをマネたもの。
昭和31年(1956).8.10〔19歳ニートら5人が監禁レイプ〕
東京都杉並区のアジトに、7.13にウェイトレス(21)を連れ込み、レイプしようとして翌日まで監禁した、無職(19)、中大3年生(20)、日大2年生(21)、明大4年生(21)、無職(20)の5人がこの日に逮捕された。会社重役、省庁の部課長、大学参事など裕福な家の息子で、小金井一家傘下の愚連隊の一員。 石原慎太郎・原作、市川崑・監督の太陽族映画『処刑の部屋』を観て、主人公が女を薬で眠らせて犯すシーンに刺激を受けたもの。
映倫事務局長が参考人として国会に呼ばれる。
その後、太陽族映画への上映反対運動は激化し、国会でも議論が行われることになっていきます。9月11日には、衆議院法務委員会閉会中審査小委員会に、映倫の事務局長池田義信が参考人として呼ばれました。
まず、三田村武夫衆議院議員からは次のような発言がなされました。
「近ごろいわゆる太陽族映画なるものがだいぶ問題になって参りまして映倫の機能云々という問題も世上論議の対象になってきたようであります。(中略)青少年不良化の原因、条件と申しますか、その社会的条件を正すことが根本の問題でありまして、すでに不良化してしまった者、凶器を持って町にあふれている者をただ警察の手で手当するというだけでは問題が片づかないのであります。(中略)その中でいつも大きく浮んでくるものは映画であります。映画というものが社会的に及ぼす影響はきわめて大きい、これは私が申し上げるまでもなく何人も肯定するところで与える影響というものはきわめて重要であります。そういう観点から、近ごろいわゆる太陽族映画なるものが問題になってきたことは申し上げるまでもありません。」
この発言からは、青少年犯罪の増加に対して、映画が大きく影響していると捉えていることがわかります。小説『太陽の季節』は、文学賞の受賞にあたって物議をかもしたことはあったものの、国会において審議されるほどではありませんでした。ところが、映画版については、国会で議論を呼ぶほどの影響力を持っていたということになります。1950年代は、日本映画の第2の黄金期であり、1956年の映画館の観客動員数は9億9378万人*3。2015年の映画館の観客動員数が1億6663万人であることからすると、メディアとしての映画の影響力の大きさは、現代に比べてはるかに大きいものであったことが窺われます。
そして、三田村議員は、こう続けます。
「ここに根本的問題にわれわれはぶつかるのであります。いわゆる新憲法下における自由なる社会においては、できるだけ強制的手段を用いたくない、つまり立法的処置とか権力による手当というものはできるだけ避けなければならぬ、これは言うまでもないのであります。そこに映画製作に対しても政府の意向とかあるいはまた権力的干渉というものがあくまでも排除されていることは御承知の通りであります。しかしながら、映画は企業である限り企業には営利が伴います。営利が伴う企業なるがゆえにまたその企業が自由であるということも少しどうかと思われるのであります。そのために映倫なるものができまして、自主的に調整と申しますか、そこに自粛の道が開かれている、かようにわれわれは伺っておるのであります。ところが、こういう自主的な映倫という機構があるにもかかわらず、次々とああいう太陽族映画が出て参ります。」
1947(昭和22)年5月3日に日本国憲法が施行されてから11年。あからさまに検閲制度を復活させることができないことは認識しつつも、自主規制がうまく機能しないのであれば、何らかの手立てを取らなければならないと考えている様子が三田村議員の発言からは窺われます。
「映画業者の自由企業はあくまでも認めます。同時に企業なるがゆえに営利もわれわれは尊重いたしますが、それゆえに企業と営利があくまでも野放しで自由であって、社会的な悪を好ましくないところに巻き散らすならば、別なことを考えざるを得ない。みずから求めて立法的処置を誘導するというような結果になることをわれわれはおそれるのであります。映画の倫理化と申しますか、倫理的な措置、そういったことが参考人の今までの御経験の上から、今までおやりになってきたこととあわせて可能か不可能か、そういうことによっていわゆる太陽族映画というものの手当が可能か不可能かということを私は伺いたいと思います。」
これに対して、池田参考人は、映倫のこれまでの活動などを述べたうえで、次のように発言します。
「太陽族と申します一連の映画は、当然青少年の観覧は望みたくない映画としてわれわれはこれをはっきり公示をしたのであります。また映画館の中におきましてもこれを大きく取り上げて、そうして表示されているのでありますが、たまたまそれが十八才以下の子供たちが見ているではないかという現状、それから映画館が断わらないではないかという現状、こういう現状によって大きく問題が展開され、むしろ青少年問題対策よりも映画倫理対策というような方へ大きく波が押し寄せて参ったのであります。」
池田参考人が言うように、映倫は、『太陽の季節』を始めとする一連の映画に対して、脚本審査等で演出上の注意を行うなどし、成人向映画とするよう指導していたにもかかわらず、現実的に未成年者が観覧する状況が社会問題として取り上げられることを受けて、苦しい立場であることを吐露しています。
このように何らかの法的規制の必要性がなされる可能性が出てきたことに危機感を感じた映画業界は、映倫を新たな組織体制とすることを決め、1956年12月1日に映画倫理委員会(新映倫)を発足させることになりました。
(文中敬称略)